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『椰子の実』を唄う。

渥美半島観光ビューローのブログをご覧の皆さま、こんにちは♬
いつも、渥美半島観光ビューローのブログをご覧いただき、ありがとうございます。


 今日、ご紹介するのは、先日の『愛のココナッツメッセージ Part.32』イベントでの、とても素敵な一幕です。
ちょっと長文になりますが、どうぞお付き合いください♬

 やしの実流しの懇親会のなかで、素敵な歌声をご披露いただきました。
 歌ってくださった方は、大中香代さん
大中さんは、このイベントのきっかけである、唱歌椰子の実』を作曲された、大中寅二さんの奥さまなのです。
会場の全員に、『椰子の実』の歌詞が配られ、みんなで合唱させていただきました。
 私も幼少の頃から、幾度となく『椰子の実』を歌ってきましたが、こんなに温かい気持ちで『椰子の実』を歌ったことは、初めてでした。
島崎藤村、大中寅二さんを想いながらの『椰子の実』の合唱。。。
本当にとても素敵な、あたたかい時間でした。
 また、大中さんは、ご出身の母校で、こんな会談もされていらっしゃいます。

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このページを見ていただいたご縁に、ぜひとも♬
抒情詩『椰子の実』、唱歌『椰子の実』のことを、皆さんに知っていただけますと嬉しいです♬
『國民歌謠』第三輯 日本放送協會ラヂオ・テキスト(昭和十一年十一月五日発行)に収録の歌詞。
 「實」「舊」など旧漢字が使われています。


【島崎藤村と柳田國男の関係】
 島崎藤村の親友の柳田國男(やなぎたくにお・のち民俗学者)は、東京帝国大学(現・東京大学)の学生の時、知り合いの画家から風光明媚な地と聞いた愛知県渥美半島の伊良湖で一ヶ月余りを過ごしました。
 
 ある日の早朝、伊良湖岬の恋路ヶ浜で、南の島から黒潮に乗って何年もかかって浜辺に打ち上げられている椰子の実に遭遇しました。
 帰京して、その感動を島崎藤村に話した所、心を動かされた藤村は、椰子の実の漂流の旅に故郷を離れて居を転々としてさまよう“漂泊の詩人”である自らの憂いを重ね、この詩を書きました。
 詩の五~七連には、特に藤村の思いが込められているように思います。
 
 明治三十三年(1900年)、雑誌『新小説』六月号に「海草」という総題の五篇の詩の一篇「其二」として発表しました。
翌年、詩集『落梅集』(明治三十四年八月二十五日、春陽堂刊)では独立した作品「椰子の実」として収録。
 柳田國男は民俗学者になる以前は、松岡國男という詩人で、島崎藤村とは新体詩の仲間でした。
官界に進んだ後も、島崎藤村、山田花袋、国木田独歩、蒲原有明など文学者との交流は続きましたが、大正時代に入ってから、当時の文学、特に自然主義や私小説のありようを次第に嫌悪するようになっていったそうです。
 東京帝国大学では農政学を学び、農商務省の高等官僚となった後、講演旅行などで東北を中心に地方の実情に触れる内に次第に民俗的なものへの関心を深めていきました。

  柳田國男著『海上の道』(筑摩書房)昭和三十六年(1961年)七月発行に、「椰子の実」や「島崎藤村」の事などの経緯が詳しく書かれています。

 【柳田國男著『海上の道』】岩波文庫24 ・25ページより抜粋】
 “途方もなく古い話だが、私は明治三十年の夏、まだ大学の二年生の休みに、三河(みかわ)の伊良湖崎(いらござき)の突端に一月余り遊んでいて、このいわゆるあゆの風の経験をしたことがある。(中略)
 
 今でも明らかに記憶するのは、この小山の裾(すそ)を東へまわって、東おもての小松原の外に、舟の出入りにはあまり使われない四五町ほどの砂浜が、東やや南に面して開けていたが、そこには風のやや強かった次の朝などに、椰子の実の流れ寄っていたのを、三度まで見たことがある。
一度は割れて真白な果肉の露(あら)われ居るもの、他の二つは皮に包まれたもので、どの辺の沖の小島から海に泛(うか)んだものかは今でも判らぬが、ともかくも遥かな波路を越えて、まだ新らしい姿でこんな浜辺まで、渡ってきていることが私には大きな驚きであった。
 この話を東京に還(かえ)ってきて、島崎藤村君にしたことが私にはよい記念である。
今でも多くの若い人たちに愛誦(あいしょう)せられている「椰子の実」の歌というのは、多分は同じ年のうちの製作であり、あれを貰いましたよと、自分でも言われたことがある。
   そを取りて 胸に当つれば新たなり 流離の愁ひ
 という章句などは、もとより私の挙動でも感懐でもなかったうえに、海の日の沈むを見れば云々の句を見ても、或いは詩人は今すこし西の方の、寂しい磯ばたに持って行きたいと思われたのかもしれないが、ともかくもこの偶然の遭遇によって、些々(ささ)たる私の見聞もまた不朽のものになった。”


 【「あゆの風」について】
 「あゆの風」は「東から吹く風」「あゆ=東風」のこと。
文中には「東へまわって」「東おもての」「東やや南に面して」と、東から浜に吹く風を思わせる描写があります。
  例・「英遠(あお)の浦に寄する白波いや増しに立ち重(し)き寄せ来(く)あゆをいたみかも」 (万葉・一八・四〇九三)
  訳・英遠の浦(=富山県氷見(ひみ)市北部ノ海岸)に寄せる白波は、ますます立ち重なって打ち寄せる。東風が激しいからだろうか。
 百田宗治作詞、草川信作曲の『どこかで春が』の歌詞には、「山の三月、東風(こち)吹いて」があります。
この場合の「こち=東風」は、春風のことです。俳句では春の季語です。
「東風(こち)」は、現代の子どもには理解できない言葉になっているので、小学校の教科書では「そよかぜ」と改作した歌詞を掲載しています。「東風(こち)」と「そよ風」では詩から受けるイメージが違います。
「東風(こち)」の説明文を添えて、原作のまま歌わせてほしいものですね。
  例・「東風吹かばにほひおこせよ梅の花 主(あるじ)なしとて春を忘るな」 (菅原道真が左遷された時の歌)。
  【「明治三十一年」説について】
 まず、柳田國男著『海上の道』に「明治三十年の夏」「大学二年生」と書かれている事実は動かしがたい。それなのになぜ、「明治三十一年」説があるのでしょうか。
  これは、柳田國男の年譜を見ると理解できます。大学への入学年が「明治三十年」になっています。つまり「明治三十年」は「大学一年生」です。
 そして、東京帝国大学で一年を終えての夏季休暇・・・ということで、明治三十一年だと推察されますよね。 

※では、内容を戻します。

  “柳田國男が「伊良湖岬」の漁村に滞在したのは、明治三十一年(1898年)七月、夏の一ヶ月余り(約五十日間)で、
東京帝国大学で一年を終えた夏季休暇の時であった。
 柳田に「伊良湖岬」を紹介したのは、当地出身の画家の宮川春汀
で、彼の語る故郷の素朴な民情に心を引かれた柳田は、伊良湖村の小久保惣三郎の離れ座敷に仮寓し、夏期休暇を送った。
 滞在中、一夏にわたって近在の村々や神島へと足を伸ばし、風景明媚な自然や、素朴な村人たちとも親好を深め見聞を広めた。
「恋路ヶ浜」に流れ着いた「椰子の実」を見つけたのはこの時の事だった。「椰子の実」は島崎藤村が執筆した詩である。

 一八九八年(明治三十一年)夏、東京帝国大学二年生だった柳田國男がこの地に一ヶ月滞在した時、
「風の強かった翌朝は黒潮に乗って幾年月の旅の果て、椰子の実が一つ、岬の流れから日本民族の故郷は南洋諸島だと確信した」といった話を親友だった藤村にし、藤村はその話にヒントを得て「椰子の実の漂流の旅に自分が故郷を離れてさまよう憂い」を重ね、この詩を書いた。
 一九三六年(昭和十一年)七月、NHK大阪中央放送局で放送中だった「国民歌謡」の担当者が、作曲家の大中寅二を訪問しこの詩に曲を付すよう依頼し、曲が完成した。”


 また、椰子の実をひろった柳田國男が逗留した網元の家(柳田は離れ座敷を間借りしていた)は、現在・伊良湖シーパーク&スパの敷地内にあるんだそうです。
 ★「日本民俗学の父 柳田國男逗留の地碑」は、伊良湖シーパーク&スパの入口の所にあります。

【歌曲「椰子の実」の誕生の物語】
「椰子の実」は島崎藤村が執筆した詩である。
一八九八年(明治三十一年)夏、東京帝国大学二年生だった柳田國男がこの地に一ヶ月滞在した時、
「風の強かった翌朝は黒潮に乗って幾年月の旅の果て、椰子の実が一つ、岬の流れから日本民族の故郷は南洋諸島だと確信した」
といった話を親友だった藤村にし、藤村はその話にヒントを得て「椰子の実の漂流の旅に自分が故郷を離れてさまよう憂い」を重ね、
この詩を書いた。
一九三六年(昭和十一年)七月、NHK大阪中央放送局で放送中だった「国民歌謡」の担当者が
作曲家の大中寅二を訪問しこの詩に曲を付すよう依頼し、曲が完成した。

今日も読んでくださって、ありがとうございました♬
おかぴでした♪(´ᵕ`๑)۶⁾⁾

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