田原城跡

田原城は、文明12年(1480)頃、戸田宗光によって、築城。周りを海に囲まれた堅固な城で湾の形が巴形になっていたところから、”巴江城”とも呼ばれていました。

寛文4年(1664)、三宅康勝が拝領し、以来三宅家の居城として明治維新をむかえました。

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体験レポート

城下町を代表する散歩道


海に近かった田原城

堂々たる二の丸櫓
堂々たる二の丸櫓

 田原市の中心街、殿町の交差点から櫓時計のあるゆるやかな坂を登っていくと、右手に田原城跡が姿を現わします。石垣と松の木がお堀の水面に映え、しっとりとした情景は城下町ならでは。春の桜が咲く季節はさぞや…と思える美しさ。ゆったりとした気分で、そぞろ歩きを楽しみたい界隈です。 田原城の歴史は、文明12年(1480)の戸田宗光の田原城築城に始まります。当時の地形は今と異なり、田原城の周囲には海が入り込んでいました。海が入り江を形作る、その状況が巴(ともえ)の文字に似ていることから、巴江(はこう)城 とも呼ばれていたといいます。現在の地形とは、だいぶ異なっていたのですね。  築城当時の田原城は砦あるいは館(やかた)のようなものだったらしいのですが、天正18年(1590)に吉田城主・池田輝政が支配してから初めて石垣や城郭が作られました。城は平城で本丸、二の丸、三の丸、出曲輪、藤田曲輪がありましたが、天守閣はありませんでした。現在、本丸のあった位置に巴江神社が建ち、二の丸跡には田原市博物館と二の丸櫓、三の丸跡には護国神社、出曲輪 のひとつには崋山神社と崋山会館が建っています。往時の田原城の位置関係と規模が、少し見えてくるようです。

戦国の荒波に翻弄されて

崋山神社方面からのぞむ桜門と銀杏の木。
崋山神社方面からのぞむ桜門と銀杏の木。

 さて、田原城の歴史をひも解いてみましょう。戦国武将が覇権を競う争乱の世、田原城も例外ではなく、今川氏・武田氏・松平氏(徳川氏)らの激しい攻防にさらされることとなりました。初代・戸田宗光から数えて五代目の堯光の時代に、今川方に送られる途中の松平竹千代(徳川家康)を奪って、織田方に送った事件がありました。この事件に怒った今川義元は田原城を攻め、激戦ののち落城。四代・宗光と五代・堯光は共に討ち死に。この時、宗光の弟・光忠は宗光の首を抱いて、我が子・忠次と共に城を脱出。山越しに落ち延びて、野田村の西圓寺にたどり着き、住職に首を預けて宗光の供養を頼みました。
 落城により城主は今川氏にとって替わり、その後、今川氏の城代が四代続きましたが、今度は永禄8年(1565)徳川家康が攻めて落城。田原城は徳川方の所有となりました。徳川方の4人目の城主に、伊豆の下田から戸田氏(四代宗光の弟・光忠の孫・尊次)が国替えになり、城主として返り咲きました。戸田氏が三代続いた後、寛文4年(1664)三宅家に替わり、明治まで実に十二代、二百年の間三宅家が藩主として続くことになりました。
 いま最も田原城の雰囲気を伝えるのは、博物館の埋蔵資料室として使われている二の丸櫓でしょうか。正面の桜門から坂を登って二の丸櫓の傍らを歩いていると、武士が裃を着て登城してくるかのような気分が味わえます。一方、博物館の駐車場から続く空堀跡も、趣のある散歩道。路の両脇に紫陽花が植えられていて、梅雨の時期には見事な花を咲かせます。巴江神社と護国神社、崋山神社と城跡一帯は落ち着いた散歩道としても一体感があって、この道を毎日通学する子どもたちがうらやましいくらいです。田原を代表する風景といってもいいでしょう。